関係性はつくるもの

さまざまな関係性についての妄言

フーゴはなぜキレるのか?

今回はフーゴについて。

アニメ解釈では、フーゴの怒りは両親による抑圧により醸成され、大学の教授による悪質なハラスメント…フーゴの尊敬を裏切った暴挙に対して暴発した。以来、フーゴは堕ちに堕ちてしまったが、ブチャラティは「おまえの獰猛さも含めておまえを活かす」と約束してフーゴの信頼を得た。ということになっている。

個人的に、これはあんまりしっくりこない解釈だった。

アニメ解釈では、フーゴの怒りはつまるところ、自分の期待・信頼を裏切った相手に対して爆発するということになる。教えても教えても上手く行かないナランチャに対してキレたのもそのためである。
ナランチャは、全く出来ないなら出来ないで、フーゴだってはなから期待しないのに、中途半端に出来るときがあるせいで、結果的にフーゴの期待を裏切ってしまい、怒りを買う。
また、パープルヘイズのよだれへの嫌悪感は、あの最低最悪教授のよだれから来るもの。

アニメ解釈によって筋が通る描写は、このように確かにあるのだが、フーゴに関しては「筋が通らない」ことこそ大切なんじゃないか?と個人的には思うところがあります。

フーゴの怒りはまさに「獰猛」なのだ。本人すら蝕む理不尽な破壊力の塊であるパープルヘイズの能力が体現するように、フーゴの怒りは元来、彼を抑圧するものすべてを倫理道徳理屈によらずぶち抜くむちゃくちゃなパワーである。
フーゴがキレるタイミングは、フーゴ本人にしか分からないミステリアスなスイッチでなければならない。そうでなければ、フーゴのキャラクターは単なるキレやすい若者になってしまう。

それが、
自分のポジションにかぶってくる生意気な新人がポカをしたのでキレる→わかる
両親による抑圧による過度のストレスでキレる→わかる
少年性愛の教授によるパワハラでキレる→わかる
と、「そりゃキレてもしゃーないわ」なタイミングでしか、アニメ解釈のフーゴはキレないことになってしまっている。
五部はギャングの世界だから、「キレ」てる奴はいくらでも出てくる。そんな中、高い知性を誇る一方で、えっそのタイミングでキレるの!?という二面的な異常性がフーゴの個性だったはずだ。
キレる理由にきれいに筋を通してしまったがゆえに、ただの短気な今時の若者みたいな描かれかたになってないかなあ、と思ったわけです。

特に、運転中にナビを誤ったジョルノに、これから一刻もはやく指令を果たそうというときにキレかけて、アバッキオに宥められたところは、ちょっと首をひねってしまった。
フーゴフーゴにしか分からないタイミングでキレるが、合理的な思考ができ、マンインザミラー戦の最後ではチーム内でほぼ初めて、ジョルノに対する信頼を公言できる素直さと芯の強さもある、有能な男なのだ。
あそこは任務遂行を優先し、内心はどうあれ、冷静にジョルノに一言たしなめるくらいが、フーゴの「任務においては理知的であるが、獰猛なところがある」という個性の描写としては合ってたんじゃないかなあ…知らんけど…

フーゴの怒りの発露に筋が通っているアニメ解釈にのっとると、獰猛さを含めてフーゴを受容し活用すると約束したはずのブチャラティが、ボートに乗る段になってどう考えても合理的でない選択をしようとしたことに対して、フーゴは「自分の期待を裏切る行動に出たから」キレるはずじゃないかな。
なんといっても、アニメのブチャラティフーゴに対しておまえを自分のもとで活かすと約束をしているから、フーゴとしてもその約束を反故にされるわけなので、そりゃ怒る権利はあるよね。
(アニメ解釈のフーゴは、そういう意味ではブチャラティとある種対等な契約を交わしている。ブチャラティフーゴの知性を買い、その対価としてフーゴを獰猛さごと受容すると約束しているので、フーゴブチャラティへの尊敬の念から一方的に彼に奉仕するような、大きな段差のある関係ではないのである。
ブチャラティの選択を受け入れられない場合、フーゴは彼に怒ることができる。ブチャラティを慕っていることには変わりなくとも、ナランチャアバッキオとは心情的にだいぶ異なる。ここのところの根本的な立場の差が、最終的にフーゴがボートのシーンでブチャラティたちを見限るというかたちで発露することになるんだろうか。)
でも、原作だとフーゴは冷や汗をかいてブチャラティを諭すようなことを言い、巨大な敵を前にただ立ちすくんで、彼なりに合理的な選択をする。

とはいえ、あのシーンは当時読んでいた私も「あれ?フーゴここではキレないんだな、やっぱりよく分かんない男だな」と思ったところで、どうにかしてブチャラティたちを心変わりさせたくて言葉を尽くすことを優先したのと、裏切り者としてボスに殺されることへの恐怖が怒りより勝ったためかと考えていた。
ここのところについて、恥パ解釈では「ギャングの世界ではこうするのが当然の常識なのに、みたいなことばかり言って、自分の気持ちはなかった」「そういう常識をふりかざすが、そもそもフーゴは世間の言うこうすべきという常識がだいっきらい(その常識という名目でさんざん抑圧されてきたもんね…)」「フーゴにしかわからない、フーゴの信じているものの道理を他人が信じてくれないことに常に怒っているから、どうでもいいところでいきなりキレる」という解釈がなされている。
そのうえで、「その自分の信じるもの、分かっていると思い上がっているフーゴの中での道理というのは結局浅知恵であり、己を捨てて生きる勇気(ブチャラティの生き方のリフレインだろう)を知らなくちゃだめだよ」という流れになっている。

解釈っていろいろあるね…
やっぱりフーゴの内面の考察は難しい。

なんか気づくと原作だけでなく恥パのことをよく引用してしまってるけど、たぶん五部完結後の供給不足の中では貴重な供給で、あまりにも繰り返し味がなくなるかというくらい噛んでしまっているから癖になっちゃってんだな…
アニメでのブチャラティたちとフーゴとの別れはどうなるだろう?
今後も楽しみです。